とある配信者の裏日記

某配信者の中の人のぶろぐになります。よかったらコメント等で応援してください

あなたの隣にいたいだけ

 

もう冬のことを鍋と呼んでもいいと私は思う

そのくらい密接な関係にある「冬」と「鍋」

 

「鍋が始まるよ」/槇原敬之

 

これだけで季節がわかるということは類義語として相違ない

 

 

 

 今やこのブログも私にとっては体を温めお腹を満たす鍋のようになってるのかもしれない

 

 

 

鍋というのは日本の文化であり、世にも珍しい「調理をしながら食べる料理」なのである

 

このブログも流れを決めて一発で書いてるわけではなく、書いてるうちに隠し味である伏線を混ぜたり出汁が効いたおつゆで作る雑炊のように〆を作ったりしてるという意味では鍋のような部分が見てとれる

 

 

 

自分でも思うのだがよく毎回毎回ちゃんとした伏線回収をしたブログを書けるもんだとここ最近自分でも舌を巻くことがある

 

 

ではここで普段ブログを作るときの「レシピ」を紹介したい

もし誰か一緒にこの苦労を分かち合ってくれる人がいたらぜひ手を取り合って共有しようじゃないか

 

 

 

私はこのブログを作る際、箇条書きにしたメモを取っておいて組み合わせが上手くいきそうなものを混ぜて一つのモノにしている

 

これまでのブログでいうと

「人間関係は歯車」

「疑われただけの不倫は損」

「配信とは宗教」

などの1行1行の普段思ってることをメモ書きし、うだうだ長文組み合わせて最後に〆でなんとなく上手い具合に終わってるなと思ってくれれば狙い通りなのだ

 

 

感覚としては二つの単語の共通点を探して文にしている「長文のねづっち」と思ってくれると喉越しのいい例えになると思う

 

あとはオチとなる部分の話の「側」をブログの最初に入れ込むことで後乗せサクサクの伏線が出来上がる

 

このような過程を経由してなりたっているこの私の愛情がこもった「鍋」をぜひこれからも皆様にはつついてもらいたいと願う所存なのだ

 

 

 

 

 

とまぁ

 

 

いわゆるこのブログの製造過程を見てもらったのだが

鍋のように調理をしながら食事をする料理もあればお店などによくある「調理過程を見てもらってから食べる料理」もある

ステーキハウスやお寿司などがそれに当たる

 

これから食べるものに何が入ってるか、誰が作ってるか、どう作ってるか

目視をすることで「安心感」という調味料が味をグンと昇華させ高級感を心が勝手に感じてしまうのだ

 

 

私は月見そばが好きでよく食べに行くのだが蕎麦打ちをしている風景を見ながら待つ時間というのは心にゆとりができ、和の精神が流れ込む気がして嫌いではない

 

私にとって玉子が浮かんだ月見そばは毎年冬を告げる心の中の激アツ綾波背景なのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さてどうだろうか

 

 

製造過程を見た後のこのブログはより一層安心感と高級感あふれる一品に仕上がったことだと私は確信している

 

私を含めてだが配信者、Vtuberの中には編集画面やサムネの作成過程などを見せる人がいる

それは苦労をわかって欲しいのではなく製造過程を見せることによる「作品の昇華」を狙っているのだ

 

裏側を知ってもらうというのは一番簡単にできる自己紹介のようなもの、だとも言える

 

 

 

 

 

 

それでは〆の雑炊に入ります

 

 

 

 

 

 

だんだん寒くなってきた今日この頃、皆様はどのようなもので体を温めますか?

よかったらコメントで教えてください

 

 

私は黄身が浮かんだあったかい月見そばもいいのですが

やっぱり「きみ」の「そば」が好き

 

 

タイトルのうっすい伏線を回収したところで失礼します

お後がよろしいようで

 

 

 

「癖」【へき】【くせ】かたまった習性。かたよった好み。

 

 

私はよく人間関係をパズルのピースに例える

 

自分の凹んだところと相手の凸のところが綺麗に合わさる人もいればお互い凸の人もいる

 

その相性のようなものが友情であり恋愛だとコミュニケーションを特化として生きてきた私としては思う

 

二人だと気まずい間柄でも誰かが間に入ると居心地のいい空間になる、という経験はないだろうか

それは二人の間に一つのピースがはまることによって出来た一枚の絵なのだ

 

中には相手の凸に合わせて自分の凹を削ったり補ったり

右では合わない凹凸を左や上で合わそうとする人もいる

逆に相手を自分に合わせようとする人もいる

 

 

もしこれを見ているあなたが過去に恋愛などで相手に無理やり合わせようとした経験があるとすればきっとこの例えが違和感なく見えていることだろう

自分を削り無理をして補い、そして従来の友達と自分がハマらなくなる、ということがあったのではないだろうか

 

 

 

 

 

 では私の場合はどうだろう

 

Twitterなどでは「ぷぷぷぃ%」という人間は賛否が大きく分かれる

他人にサムネを作ったり切り抜きをしたり、その凸の能力を買ってくれる人もいれば

時折出る苦言に心を刺される思いをする人もいるようで、名前も知らないような人にブロックをされている「一面」もあり

そこがいいと言う人がいるのもまた事実

 

 

人のために何かをして

人に見てもらいたく動く

「人に好かれようとするということは嫌われる事」なのかもしれない

 

 

 

しかしこうも言える

「嫌われようとすることは人に好かれることである」と

 

先日のブログにも書いた通り全ての善悪は見てる人に委ねられる

 

以前私は「ちゃんと活動をした上で登録者が0人のチャンネルを作りたい」とTwitterでいったことがある

すると

「面白そう!」

「ぷぷさんなら出来そう」

「チャンネルを作ったら是非教えて欲しい」

と言われた

この時点で早くも目標不達成なのである

 

 

支持をされないような活動というのは裏を返せば

「支持をされない活動を支持する」人が集まってしまうのだ

 

 

 

 

一方で「みんなに愛されたい毒っ気のない清楚な活動をしたい」

という人がいる

というか大半がそのような人だ

 

不思議とそのような人は自然と淘汰されてしまう

凹凸のないパズルは角に追いやられてしまうということだろうか

みんなに愛されたいと思うあまり愛してくれる人が減ってしまう

昔から日本ではこのような人たちを「八方美人」という言葉で片付けられてしまっていた

 

 

 

 

 

 パズルというものは一面一面不揃いだからこそ美しく、だからこそ難しい

もし多くの人に愛されたいと思うあまり、均等に凹凸を作り多面的に相手との干渉を試みた際

パズルの不揃いさはなくなり、機械的な「歯車」として他の歯車と噛み合ってしまうのではないだろうか

 

 

 

 

争いのないように活動を続け「PEACE」を掲げた人こそ、パズルの「PIECE」からかけ離れてしまうというのは何とも皮肉なことだと私は思っている

 

 

「動画配信とは宗教のようなものである」

 例えば私が何も持ってない手から火を出したとする

これは魔法かそれとも科学か

 

「充分に発達した科学は魔法とは見分けがつかない」

という言葉にもある通り、私が手から火を出した方法を暴くことができればそれは科学

もしそのまま騙されてしまった場合は魔法、すなわち英語で「マジック」と呼ばれる行為となる

 

マジックと言われると手品と思う方も多いだろう

魔法とマジックの違いは「タネや仕掛け」があるかないか

タネを理解し、その全貌を暴いた場合マジックは突如として魔法ではなく科学となる

 

 

 

 言い換えるならば目の前で起こったことは全て、なににカテゴリー分けされるかというと見てる人によって分類されるのである

その人の人生経験や知識の量などで目の前のことが光にも影にも変化してしまうのだ

 

 

昨今身近な問題として置き換えるなら某食事チェーンの備品を口で咥えたり鼻に刺したり

「テロ行為」のようなことが度々問題として取り上げられるのだが、それらの行為は全てほんの一部の「それらの行為を面白いと心から思った人」による善意の布教活動によるものだと思っている

 

どんな行為にもそれらを正義として背中を後押しする人や意見があるのは紛れもない事実なのだ

 

 

 急に話は変わるのだがホロライブ所属、登録者237万人を超える有名Vtuber「兎田ぺこら」という方の言葉に

「配信というものは宗教のようなものだ」

という言葉がある

その人のことを愛し、考えに共有し、理解ができない者たちは排除され、間違った意見を言った者はどちらが正しいかは別問題として「悪」すなわち「アンチ」と呼ばれてしまうのだ

そして配信主の思想に賛成をする者のみが集まる配信という集会が行われるのだ

 

もし配信を主として活動してる人はこの言葉の意味が伝わるだろうと思う

 

ネットにおける言葉の重みとは真実味そのものよりもその言葉に共有した人間の数、つまり「いいね」によって決まってしまうのだ

 

これは日本は古来からある物事の決め方で、身近なところで行くと「選挙」というものがある

国の未来も、学校の班長決めも全ては多数決で決まっている

 

大事なのは正義か悪かではなくて、共感の数なのだ

 

 

本来であれば罪として闇に葬られるはずの「醤油ぺろぺろ」は悪として世に広まった

 

「フクシマ」「ナガサキ」「ゲンバク」など、各地で迷惑行為をしているジョニー・ソマリも悪名で世間に名が広がった人の一人だろう

 

配信というものは、自分のことを信じている人を増やす「布教活動」に見えて仕方がない

 

 

 

皆様はどうだろうか

冒頭にあった有名Vtuber、兎田ぺこら氏が言う「配信とは宗教のようなものである」という言葉

 

賛成だろうか反対だろうか

もしよかったらログインせずにコメントを書けるので賛成か反対か、またはご自身の意見をコメントに書いていただきたい

 

言葉というものはそれを聞く人によって共感が集まれば真実となり

誰の目にも止まらなければ戯言となる

 

 

 

 

 

もし

 

 

 

 

 

 

 

 

一つだけ問題があるとすれば

 

 

 

 

 

 

 

「配信とは宗教のようなものである」

という言葉はぺこら氏の発言ではなく

登録者数300人の私、ぷぷぷぃ%がずっと言っている言葉であるということ

 

もし言葉自体の内容や真実味ではなく

「私が言った言葉」か「ぺこら氏が言った言葉か」によって印象が変わったのであれば

この言葉は世界で一番いいねの少ない「真実」だと言える

 

容姿が醜い女性と行為をする際には目隠しをしてもらえばいいという理論

 

 

 

「ボクには人を殺す権利がある」

 

 

 

突然私がそう言ったらどうだろうか?

ただの虚言なのか

空想話だろうか

変人として処理されるのだろうか

 

この権利は私だけにあるものではなく、今この文章を読んでる人にもあるとしたら、、、

 

そして物騒な単語のマイナスイメージで始まったこのブログをプラスに変えることは出来るのだろうか

 

世界一短い伏線回収が終わったところで本編へと参ります

 

 

 

 

 

↓本編

 

 

 

 「実におもしろい」

 

テレビで聞いたことのあるこのセリフ

人生というものは数式に置き換えることが出来るのではないか?というのが私の持論である

 

 

 

-(マイナス)×ー(マイナス)=+(プラス)

 

小学校で習うこの数式はたびたび大人になってからでも使われる

 

学生が言う

「こんなこと勉強して社会で使われるんですか?」

などという屁理屈はあくまで未熟な人の考えなのだと大人になった今、経験則として言い切ることが出来る

 

 

 

 

例えばの話

今貴重な時間を割いてこの文を見てくれているあなたに私が今から悪口を言う

「○○○○!!」「どうせお前は○○○!!」

すいません、あまりに見ていられない言葉が出たのでこちらで処理しました

 

特殊な人を除いては悲しい気持ちになるだろう

当然感情はマイナス方向へと働く

 

しかし、あなたを嫌いな誰かがそれを見ていたとしよう

その人にとってはどうだろうか

自分が嫌いな人への悪口を自分の手を汚さずに他人が代弁してくれてるのだ

不謹慎ではあるが一番近い日本語で言うなら「幸せ」な気持ちにならないだろうか

 

「悪口を言う」マイナスと「あなたを嫌いな誰か」というマイナスは一転して誰かの幸せを作ってしまう、ということだ

 

人の幸せとは他の誰かの涙で育てられた花なのかもしれない

 

 

 

 

他にもマイナス×マイナスが成り立つ状況がある

 

 

もし仮に私が無実なのに不倫や浮気を疑われたとしよう

その証明ができずに罪を請け負ってしまった場合恋人や配偶者と別れたり最悪の場合裁判所まで持ち込むケースだってある

そのとき私は無実であるにもかかわらず不倫や浮気に対する償いをしなければならない

 

本来であれば不貞行為をして罪を償った場合、その快楽と対価の償いをするべきなのだが今回の無実のケースでは快楽を得られないまま償うことになる

 

言うならば快楽分の損をしているのである

 

本当に不貞行為を行っていた場合と無実の場合では快楽を得ようが得るまいが償うものは同じなのだ

 

そのとき無実の人は不貞行為をしてもしなくても同等に償わなければいけないという結果は同じなのだから

「何らかの形で快楽を得る権利を得た」と言い換えることは出来ないだろうか

 

不貞行為というマイナスを損しているのだから

不貞行為をする権利というプラスを=の左側に置くことには何ら問題はないだろう

 

 

 ではここでこのブログの最初に戻る

「ボクには人を殺す権利がある」

この権利は本当に得るものではないが、嘘だと切り捨てるには少々暴力的に見えるのは私だけだろうか

 

 

昨年安倍晋三元総理が暗殺をされたのだが、その行為自体はマイナスであっても誰かの幸せを運ぶ青い鳥だったような気がしてならない

 

 

ここらへんで今回の話を終わりたいのだが冒頭の

「このブログをプラスに変えることは出来るのだろうか」

という言葉に対して私は誰かが幸せになれるブログを書けたという自信がない

 

つまり、このブログ分私は誰かを不幸にしてしまったという損を背負ってしまったのである

 

この損を補うための権利を私は何か知らずのうちに得たのかもしれない

 

「あなたは誰ですか?」

 

 

まずはこのブログを見てくれてありがとうございます

これを読み進める前にこのタイトルの質問をさせてください

「あなたは誰ですか?」

答えられない人はいないと思います

 

これを読んでるあなただって

周りの友人だって

過去の私も現在の私も・・・

ですが数ヶ月後の「未来の私」はこの簡単な質問に答えることが出来ません

 

今回はそんな少しだけ先のお話

 

 

 

 

 

↓本編

 

 

 

 

 

 

 

かの有名な矢沢永吉が言いました

「ボクはいいんだけどYAZAWAはどうかな?」と

 

彼は「矢沢永吉」として生きてきてるのですが「矢沢永吉」として生まれたわけではありません

 

普通に生まれて普通に恋をして普通に生きてきてある日、歌手でありそしてロックスター「矢沢永吉」として生きてゆくことになったのです

言い換えるならば彼は矢沢永吉であり、矢沢永吉ではないのです

 

仮に道ゆく人に矢沢永吉の写真を見せて

「彼は誰ですか?」と聞くとほとんどの人が矢沢永吉だと答えると思います

 

ですが矢沢永吉ご本人はきっと答えに詰まると思います。彼の中で「YAZAWA」ならここでどうするか、という選択肢を選んで生きてきたのです

そして彼は所詮、この先の人生において「YAZAWA」を写真や動画でしか見ることはないのです

 

 

 

 

ここでロックスターとはあまりにもかけ離れたとあるネットの人間のお話

 

ぷぷぷぃ%という名前で活動する前は「まゆげ」という名前で過去に某ブログサイトで活動をしておりました

 

手前味噌ではありますが「月曜日で鬱だったけどまゆげさんのブログ見て元気が出た」

というコメントをもらうくらいには一部の人からは認知されていました

 

今だにまゆげという人格を引きずってることはこのブログのID、そしてTwitterのIDからも見て取れると思います

アイコンのつながりまゆげもここから来ています

Twitterをよく見てもらうとわかるのですが、私のことを現在もまゆげと呼ぶ人がいるのはそういうことです

いまだにぷぷぷぃと呼ばれるよりもまゆげと呼ばれる方がしっくりくるのはきっとぷぷぷぃ兼まゆげとして活動してる部分が多いからでしょう

 

 

 

 

まゆげとして活動を始めたのが19歳のとき

私生活においてもネットの中においても何か話せるネタがないかと模索しており

ある意味では「まゆげならどうするか」という選択肢を自分に投げかけていた一人でもあるのです

 

もうすぐすると私は誕生日を迎え38歳になります

つまり人生の半分をまゆげとして生き、これからはまゆげ人生の方が長くなるということになります

 

今の段階では「あなたは誰ですか?」の問いに自信を持って中の人の名前で答えるのですが

数ヶ月後「MAYUGEはどうかな?」と自分に問いかける矢沢永吉さんの言葉を少し借りることになるのかもしれません

「口では嘘をついていても体は正直だな」

 

「あなたの目の前で男性に百万円をあげますが、あなたが私に百円を渡せばあげるのをやめます」

さぁ、あなたはどうしますか?

 

かつてこのような社会実験があった

 

前者は自分が損をするわけでもなく他人が幸せを得る

後者は誰も得をしないが自分だけが損をする

 

この実験の結果は半数以上が後者を選ぶらしい

特に日本人にはその傾向が強く出るとのことだ

 

日本人である私も例外なく100円を渡す

迷わずに渡す

 

 

 

 

 

 

 

↑以上が自己紹介となります

以後お見知り置きを

 

 

配信や投稿で動画の活動をしてる私はよくこの場面に出くわす

「初配信前に登録者が1000人行きました!」

「先日の動画がバズって10万再生されました!」

もし神が現れて冒頭のようなことがあった場合私はきっと迷わないと思う

 

 

言い方を変えるとそれだけ自信があったし、他の人に負けるわけがないと胸を誇れる話術を持っている自負があった

 

 

羨ましくないといえば嘘になる

Twitter等では

「登録者なんて気にしてません。むしろゼロ人が目標です」

と言ってはいるが果たしてこれは素直な気持ちなのかと自分に問いかけることが多々ある

 

口が達者なもう一人の自分が心の中で自分を捲し立てるのだ

その葛藤から逃げるために私は神を呼び、硬貨を一枚心の中に投げ入れる

その成功を収めた活動者を見たくない一心で「ミュート」というボタンを押す、そんな自分が情けなくて好きなのだ

 

 

もしかしたら違う世界線では「ぷぷぷぃ%」が大手実況者、有名配信者になっていた未来があったのかもしれない

しかしそれを邪魔しているのもまた100円を握りしめた自分なのだとこの数年間の活動で気付いた

 

友人に言われたことがある「お前は逃げ癖がある」の言葉は言い換えると「逃げなければ戦えるのに」という彼なりのエールだったんだろう

彼は成功していく他人を見る人なのだ

そして自分が壁を乗り越える出来事があったときに傍観をしていて欲しい人なのだ

 

 

「数日かけて努力して作った動画が評価されなくてもいい」「俺を好きな人が見てくれれば再生回数は1でいい」だなんて口が達者な自分の中の自分から出た嘘でしかない

 

きっとこのブログも同じだ

Twitterでは強気な自分が「個人のブログなので別に見なくてもいいですよ!」

なんて呟くに決まってる

 

しかし本音はみんなに見て欲しいしもっと自分のことを知って欲しいと震えている自分が今このブログを書いている

 

まさに「口は嘘をついていても体は正直だな」状態なのだ