私はよく人間関係をパズルのピースに例える
自分の凹んだところと相手の凸のところが綺麗に合わさる人もいればお互い凸の人もいる
その相性のようなものが友情であり恋愛だとコミュニケーションを特化として生きてきた私としては思う
二人だと気まずい間柄でも誰かが間に入ると居心地のいい空間になる、という経験はないだろうか
それは二人の間に一つのピースがはまることによって出来た一枚の絵なのだ
中には相手の凸に合わせて自分の凹を削ったり補ったり
右では合わない凹凸を左や上で合わそうとする人もいる
逆に相手を自分に合わせようとする人もいる
もしこれを見ているあなたが過去に恋愛などで相手に無理やり合わせようとした経験があるとすればきっとこの例えが違和感なく見えていることだろう
自分を削り無理をして補い、そして従来の友達と自分がハマらなくなる、ということがあったのではないだろうか
では私の場合はどうだろう
Twitterなどでは「ぷぷぷぃ%」という人間は賛否が大きく分かれる
他人にサムネを作ったり切り抜きをしたり、その凸の能力を買ってくれる人もいれば
時折出る苦言に心を刺される思いをする人もいるようで、名前も知らないような人にブロックをされている「一面」もあり
そこがいいと言う人がいるのもまた事実
人のために何かをして
人に見てもらいたく動く
「人に好かれようとするということは嫌われる事」なのかもしれない
しかしこうも言える
「嫌われようとすることは人に好かれることである」と
先日のブログにも書いた通り全ての善悪は見てる人に委ねられる
以前私は「ちゃんと活動をした上で登録者が0人のチャンネルを作りたい」とTwitterでいったことがある
すると
「面白そう!」
「ぷぷさんなら出来そう」
「チャンネルを作ったら是非教えて欲しい」
と言われた
この時点で早くも目標不達成なのである
支持をされないような活動というのは裏を返せば
「支持をされない活動を支持する」人が集まってしまうのだ
一方で「みんなに愛されたい毒っ気のない清楚な活動をしたい」
という人がいる
というか大半がそのような人だ
不思議とそのような人は自然と淘汰されてしまう
凹凸のないパズルは角に追いやられてしまうということだろうか
みんなに愛されたいと思うあまり愛してくれる人が減ってしまう
昔から日本ではこのような人たちを「八方美人」という言葉で片付けられてしまっていた
パズルというものは一面一面不揃いだからこそ美しく、だからこそ難しい
もし多くの人に愛されたいと思うあまり、均等に凹凸を作り多面的に相手との干渉を試みた際
パズルの不揃いさはなくなり、機械的な「歯車」として他の歯車と噛み合ってしまうのではないだろうか
争いのないように活動を続け「PEACE」を掲げた人こそ、パズルの「PIECE」からかけ離れてしまうというのは何とも皮肉なことだと私は思っている